2014年11月17日

「当事者意識」は物事をうまくやるための理の一つかもしれない

3日ほど、ブログを書きませんでした。


3日連続で更新して一旦気が抜けたのと、なんだかんだ家でPCを弄る暇を見つける手間を惜しんでしまった(土日でいくらでも時間を見つけられたはずなのに)。とはいえ今の時代、PCが使えなくてもスマホがあるわけで、そういう意味では自分の怠惰の責任逃れの言い訳でしかありません。

人間そうそう簡単には意志が鍛えられはしませんね。。。


今日こそと思って、キーボード叩いております。

なかなか何を書いたらいいか、勘が鈍ってはおりますが、経験上なんでもいいから書き続けてると、徐々にいろいろ書くことが見つかる、思いつけるようになってくるので。


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さて、今日こんな記事を読みました。


「成長」にフォーカスした書き方になっていて、記事のタイトルもなんだか「意識高い系」な匂いもしておりちょっと気恥ずかしい感はあります(笑)。

ただ、あくまで個人的な振り返りと解釈ではあるのですが、何か物事が上手くいかないようなときは、自分の振る舞いや意識の中で「当事者意識」が欠如している、またはそう周囲に見られてしまったことが、原因の大きな一因を占めている場合もあるのかな?と気付かされました。

自分は評論家気取りで、あくまで他人ごととして距離を置いて、あれこれと懸念点などを物申す、みたいなこと。そういうのが自分の悪いところと、何度か人からも注意と助言を受け、気をつけるようにはしてはいたのですが、そのホントのところはまだ十全には理解していなかったのかも。耳が痛い。

組織や社会の中で物事をうまく進める「原則」の一つなのでしょうね

もう少し考えを進めてみると、理屈としては気がついていた、分かったフリはしていたのかもしれないんですよね。それでもそういう振る舞いをしてしまうことがあるのはなぜか?

その振る舞いに「見返り」があるからですね、きっと。

他人ごとと距離を置くことで目先の面倒(自分が何かやる羽目になること)を当面回避しつつ、そのくせもっともらしい評論・助言めいたことを言って、自分の価値を高めようとする。
意外とそれが、一見通用してしまうように見えることも多いんですよね。

ただ、その場ではそれが通用したように見えても、陰では徐々に自分への信頼や評価を下げてしまっていて、それが積もり積もって気がついた時にはすっかり信頼を無くしていて「何がどうなってしまったんだろう、こんなはずではなかった」となることもあります。長い目で見たトータルでは、やはり目先の逃げは最後に利息を伴って負債として自分に返ってきてしまう。
また、そういう小手先が通用しない人や場面に出くわして、同じような振る舞い方をしたら、ドカンと痛い目を見ることもありますね。

記事のテーマ通り、自分を成長させるという意味でも、当事者意識があるのと無いのとでは天と地の違い。責任の負い方、覚悟が違いますからね。自然と自分の能力の振り絞り方も違ってくるので、Stretchの効き方も大きく差が出ることになります。

当事者意識を持って事に当たるということ、しばらく意識して自分の習慣の一つと出来るようにしたいです。

posted by tacryan at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | Thinking | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする